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レオナルド・ダ・ヴィンチ~その生涯 2 #Leonardo500

レオナルドの生涯を追う、第2弾はミラノ編。

ローマ本局サイト情報より

≪ミラノのレオナルド(ミラノ第1期)≫
攻撃に強い戦車、そして軽く移動できる橋。
ミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァ(通称イル・モーロ)への手紙には彼の注目を引くため、レオナルドは自身の革新的兵器案を視覚的に描き、アピールしました。
そしてその後、レオナルドはミラノに移り住みます。
当時のミラノの人口はヨーロッパを軸に考えても多い10万人を誇り、人の往来や生産性の高い都市でした。
そのためかレオナルド自身、フィレンツェとは異なる習慣、気候、言葉の現実に直面し、移住当初はかなり苦労を強いられました。
未払いの食事代や支払いのメモが多く所見されることからも日常生活の困難さがしのばれます。

≪レオナルド、宮廷での制作≫
ミラノでレオナルドは、イル・モーロの宮廷に出廷を許され、重要で刺激的な仕事の機会を得ます。
スフォルツェスコ城アッセの間 のフレスコ画を任されると、天井に絡み合う木々の枝を描き、部屋を素晴らしい小さな森に変貌させました。
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出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)
スフォルツェスコ城アッセの間(ロンバルディア州ミラノ)

宮廷でレオナルドは、当時16歳の魅力的なチェチリア・ガッレラーニと知り合います。
レオナルドの人生で特別な関係はなかったものの、チェチリアの美しさと知性は巨匠を大いに魅了しました。
そのため大公の愛妾でもあった彼女をモデルにし、代表作のひとつである絵画「白貂を抱く貴婦人」(ポーランド、クラクフ国立美術館所蔵)を描いたのでしょう。
Portrait of Cecilia Gallerani (Lady with the Ermine), about 1488
出典:ウィキメディア・コモンズ
「白貂を抱く貴婦人」ポーランド、クラクフ国立美術館

≪才能は多方面へ≫
機械や装置設計の能力の高さは、また舞台装置というレオナルドの別の才能にも表れています。
「天国の祭り」という芝居の上演では、イル・モーロのために彼が見たこともない大掛かりな舞台装置を設計し披露し、彼自身が発明した装置により、舞台で太陽と月と惑星が動きました。
siteIMG_8324©Museo Nazionale Scienza e Tecnologia

こうしてレオナルドは監督、セットデザイン、劇場機械発明そしてスタイリストとしてもその頭角を現します。
細かなことへの執拗なこだわりから、舞台衣装制作も担当することとなります。
物事を注意深く観察し、オートメーション化に大変興味を持ち、その要素は多くの設計に見られます。
オートメーション化製造により、効率・速さの観点からも経済的利益を生むことに関心があったのです。
(当時ミラノでは繊維産業が興隆しており、レオナルドの設計には、夜会服のスパンコール製造や動力織機などもあります。)
こうした顧客からの兵器、産業経済、芸術的要望に実際に応えることで、彼自身と弟子たちの仕事を得ましました。

≪その他の注目≫
ミラノ滞在中、レオナルドはいくつかのか傑作といえる作品を生み出しました。
♦世界に知られる「岩窟の聖母」
512px-Leonardo_Da_Vinci_-_Vergine_delle_Rocce_(Louvre)
出典:ウィキメディア・コモンズ
「岩窟の聖母」(ルーブル美術館所蔵 フランス パリ)
地質学・植物学の彼の深い造詣をみてとることができます。
レオナルドが山や島の小渓谷で発見された海洋化石の出所や自然を、いち早く理解していた人物の一人であったことは興味深い点です。

♦「最後の晩餐」
ミラノの残る世界遺産(「サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会とドメニコ海修道院」として1980年にユネスコ文化遺産に登録)。
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「最後の晩餐」(サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会とドメニコ海修道院、ロンバルディア州ミラノ)

レオナルドはこの作品のレイアウトの構想に長い時間を費やし、キリストと弟子達との最後の会合の様子を表現しました。
彼の作品制作のアプローチは、長く断続的な過程を経ていました。
修道院長の甥であり作家のマッテオ・タンブレッロは、“レオナルドは休みなく描き続けることもあれば、昼過ぎにやってきて1、2筆で帰ってしまうこともあった”、と残しています。
作品完成後、レオナルドは、フレスコ画法の限界と欠点、その後起こる避けがたい分解現象に気づきました。
そう、使用した画材のため作品はすぐに劣化が始まったのです。
そもそも、彼が毛嫌いしていた伝統的な“ブオン・フレスコ(buon fresco)”は、素早く描かなければなりませんでした。
そのため彼は、壁に接触する部分と色が付着する石膏部という異なる2段階を経て油性テンペラ層を重ねる、という方法を取りました。
この実験的方法で彼は絵を描き直したり詳細を調整できたものの、保存という意味では良い結果が得られず、はがれてしまい、描かれた層は失われてしまったのです。
しかし現在、1982年から1999年に渡る17年間という長い修復期間を経て、芸術史の金字塔といえるこの傑作は甦りました。

 

次回はヴェネツィア、ローマ時代のレオナルド。。。
ローマ本局サイト情報より
若き日のレオナルドはここから

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