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レオナルド・ダ・ヴィンチ~その生涯 3 #Leonardo500

レオナルド・ダ・ヴィンチ~その生涯続編。

ミラノで今なお残る名画を描いたのち、政治情勢が変化したため、一時ミラノを離れることなったレオナルド。

≪マントヴァ~ヴェネツィア~ロマーニャへ≫
マントヴァ
ミラノがフランスに占領されたため、1500年、レオナルドはマントヴァへ赴きます。
その頃のマントヴァは、后妃イザベッラ・デステ・ゴンザガの宮廷時代であり、マンテーニャによる「夫婦の間」のフレスコ画など、著名芸術家が素晴らしい作品を制作していた時代です。
后妃イザベッラは、教養ある女性で芸術愛好家でもあり、何よりレオナルドの才能を認める人物でした。
彼女はレオナルドに肖像画を依頼したものの、実際には下絵・素描だけを残しました。
そして、イル・モーロに仕えた芸術家のレオナルドを保護することでフランスとの関係が悪化するのではないかと危惧し、レオナルドに宮廷を去るよう忠告しました。
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出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)
イザベッラ・デステ(下絵、紙)

♦ヴェネツィア♦
ヴェネツィアでレオナルドは、街の対トルコ防衛のため、敵の接近を阻む平地を水没させるイソンゾ河のダムなど一連の計画案に関わります。
この天才的で壮大な事業は実施されることはありませんでしたが、ヴェネツィアにはレオナルドの痕跡が今も多く残ります。
中でもアッカデミア美術館が所蔵する彼の最も有名なデッサン「ウィトルウィウス人体図」。*(2019年期間限定特別公開)
この重要な素描は、古代ローマ時代の数学者ウィトウィルスの記述をもとに描かれ、人体とその手足部分の調和を建築デザイン的尺度単位としてとらえています。

Leonardo da Vinci, Uomo Vitruviano, Gallerie dell'Accademia inv. 228
ウィトルウィウス的人体図(アカデミア美術館、ヴェネト州ヴェネツィア)

≪エミリア・ロマーニャ州へ≫
ヴェネツィアの後、レオナルドは短期間フィレンツェに戻りますが、1502年にはチェーザレ・ボルジア(別名ヴァレンティーノ)のもと、レオナルドの「軍事顧問」「建築家、総合エンジニア」としての冒険的期間が始まります。
補足)チェーザレ・ボルジアとは:ルネサンス期に物議を醸した軍人であり権力者。ニコロ・マキアヴェッリの著書「君主論」にも影響を与えた人物。

ボルジアは壮大な計画を抱いていました。
ロマーニャ地方と隣接するマルケ州、トスカーナ州の一部を支配下に置き、統一イタリアを想定した強力な近代的国家を造ることです。
レオナルドはチェーザレ・ボルジアの悪徳さを評価してはいなかったものの、その決意を称賛し、公国内の要塞の防御強化のため、頻繁に旅にでました。
行先はウルビーノ、リミニ、チェゼーナ、ぺーサロ、チェゼナティコなど、マルケ州とロマーニャ地方の各地。
そしてレオナルドは、水力学を深く研究し要塞を設計しました。
しかし、ボルジアが欺き死に至らしめた敵対する4人の中に彼の友人も含まれていたことから、ボルジアのもとを去る決心をしたのです。
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アトランティコ手稿 F117(アンブロジアーナ美術館、ロンバルディア州ミラノ)

エミリア・ロマーニャ州にレオナルドの足跡は多くは残ってはいないものの、1839年からパルマの国立美術館には、最も繊細な作品が所蔵されています。
「ほつれ髪の女」として知られている女性頭部像です。
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出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)
ほつれ髪の女 (パルマ国立美術館 エミリア・ロマーニャ州)

≪兵器設計≫
レオナルドは戦争を忌嫌っており、「野獣的狂気だ」と表現しました。
にも関わず、彼の作品は軍事的発明を生み出しています。
これは奇妙な矛盾と言えるかもしれません。
そして(海底武器などの)いくつかの軍事兵器計画を練っていましたが、例えば「海の底での殺人」に利用されるかもしれないという恐怖心から、レオナルドは自身の計画を秘密にしていました。
軍事技術者であったと同時に、兵器には自己防衛や敵に対抗する手段として合法性があると信じていたのです。
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アトランティコ手稿 F.33(アンブロジアーナ美術館、ロンバルディア州ミラノ)

レオナルドが発明した数多くの兵器は、今日、レオナルド・ダ・ビンチ科学技術博物館でその発明模型を目にすることができます。
ラミング船から、8砲、33砲の大砲、砲弾、海戦用の船底を突き破るためのタンクと装置など。
博物館にはそのほかにも、レオナルドの飛行研究の素晴らしい模型コレクションも所蔵しています。
鳥の飛行を模した器械を設計し、腕と脚の動きを増幅するためのメカニズムとレバーが必要と考えていました。


レオナルド・ダ・ビンチ科学技術博物館 (ロンバルディア州ミラノ)

彼は図案をいくつか描いてもいますが、それらを実際に製作したかはわかりません。
しかしその中のひとつには、現代ヘリコプターの祖先ともいえるスクリュー装置もあります。

≪膨らむ探求心≫
レオナルドは、真実の探求に当時の支配的文化は誤った方法を使っている、と確信していました。
一般的に、当時の文化は実験ではなく思考のみに留まっていました。
一方でレオナルドは、検証なくして知識は存在しない、という信念がありました。
この概念はガリレオの実験的方法論よりも100年先立つ考えです。
“確かめられた小さな真実の方が、証明できなかった大きな真実より好ましい”と、レオナルドは考えていたのです。
彼が残したメモ書きには、次のような一節があります。

「君たちは私を文化的素養のない人間と思っているだろうが、愚かなのは君たちだ。私は言葉からではなく、実験によって考察するのだから。」

自分の手を動かし、研究と実験を行うことは名誉なことではない、と考える当時の文学的・哲学的思想の文化に、レオナルドは疑問を抱いていたのです。

レオナルドの知識への欲求は留まることがなく、人体の解剖学など、これまで想像もできなかった分野を探求するようになりました。
そう、人体という完璧な“精密機械”に彼は魅了され、それが何を含み、どのように動き、動きが止まった時に一体なにが起こるのかを知ろうとしたのです。
当時、解剖学はまだ初期の段階にあり、レオナルドは一連の素晴らしい絵で人体を表現した最初の人物でした。
彼の制作した解剖学のイラストは、今も現代のデザイナー達に使用されています。

レオナルドは、筋肉、骨、腱、毛細血管、動脈を研究し、2つの臓器間の関係を理解するのに役立つ分解画像も考案。
しかしながら、心臓の機能を理解することはできませんでした。
植物学の研究で得ていた知識から、間違った理解へと向かったのです。
彼は、血液循環は植物の樹液循環(維管束:道管・師管)のように調節されていると考察しました。
そして心臓を運動筋ではなく、むしろ血液を温めるストーブと彼は考えたのです。
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解剖学 / レオナルド・ダ・ヴィンチ

多くの科学分野にレオナルドの研究が貢献していることは明らかです。
太陽の熱、星のきらめき、惑星としての地球、月、太陽の中心性(長年にわたり対立と反論を引き起こした異端的な主張)など天文学においてさえ、本質的なひらめきをレオナルドは持っていました。
当時、科学はまだ重力の法則を発見していませんでしたが、レオナルドは既に、引力の概念の説明を用い惑星を磁石のようになぞらえていたのです。

次回は再度フィレンツェ~そして晩年。。。

ローマ本局サイト情報より
若き日のレオナルドはここから
レオナルド、ミラノ編

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