イタリアの旅:オススメの旅

レオナルド・ダ・ヴィンチ~その生涯 4 #Leonardo500

レオナルド・ダ・ヴィンチ~その生涯、完結編。
ローマ本局サイト情報より

「精一杯過ごした1日が幸せな眠りをもたらしてくれるように、精一杯生きた人生は幸せな死をもたしてくれる」 by レオナルド・ダ・ヴィンチ

これはレオナルドが残した言葉の1つ。
さまざまな困難に立ち向かうレオナルドが次に向かう場所はどこなのか。

≪歴史の流れの中で≫
レオナルドは、ルネサンスの主役とも言える歴史的人物たちと交流を持ち、友好関係を作りました。
例えばロレンツォ・イル・マニフィコ、ルドヴィコ・イル・モーロ、チェーザレ・ボルジア、そしてニコロ・マキアヴェッリなど。
さらにボッティチェリ、ペルジーノ、彼の称賛者でもあるラッファエッロなど多くの芸術家とも。
全てが当時の各分野を代表する人物たちです。
しかし、例外が1人だけいました。
ルネサンスのもう一人の偉大なる人物、ミケランジェロです。

≪フィレンツェへの帰還≫
2人の芸術家は絵画の分野でぶつかり合います。
フィレンツェにあるヴェッキオ宮殿500人広間、内部には向かい合う大きな2つの壁。
1503年、レオナルドは、ミケランジェロとともにこの壁画制作を依頼されます。
両者とも戦いの場面を描くことになったのです。
レオナルドは「アンギアーリの戦い」を、そしてミケランジェロは「カシーナの戦い」を。

またこの作品でレオナルドは(「最後の晩餐」の時と同様に)、再度(苦手とする)フレスコ画の技法に立ち向かうことになったのです。
フレスコ画を描く技法は、素早くためらいなく筆を動かすミケランジェロにとっては慣れ親しんだものでしたが、時間をかけて描き、直しや部分修正することの多いレオナルドには向かない技法でした。
考え抜いた末にレオナルドは、色を長持ちさせるために別の技法を使う決心をします。
それは古代ローマ人が用いプリニウスが記述した技法、「エンカウスティーク」(着色した蜜蝋を溶融し、表面に焼き付ける絵画技法)です。
しかし、結果は悲惨なものでした。
壁に色を付着させる熱源が足りず、絵画はすぐに劣化し始めてしまったのです。
そのため「アンギアーリの戦い」は見ることができたのは、部屋の再構成と装飾を任されたヴァザーリのフレスコ画に覆われるまでの約50年間でした。
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ヴェッキオ宮殿500人広間天井を仰ぎ見る(トスカーナ州フィレンツェ)

≪幻の「アンギアーリの戦い」≫
この消えてしまった「アンギアーリの戦い」は、ルーベンスなどの芸術家が描いた模写のおかげで、私たちはそのフレスコ画の様子を知ることができます。
しかし、ミケランジェロはフレスコ画をこの場所に制作しなかったため、両者の絵を比較することは出来ません。
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アンギアーリの戦い(ルーベンス作)

≪同時期に描いた傑作≫
また同時期、レオナルドは傑作を残しました。
それが「モナリザ(ジョコンダ)」です。
この絵は芸術史上、純然たる「絵画」と定義づけられる偉大な作品。
作品自体は、穏やかなフィレンツェ女性フランチェスコ・デル・ジョコンド夫人の肖像画として知られ、彼女の夫の肖像画も描くことになっていたようです。

しかし、確かなことは、その作品が実際に納品されることはなかったということです。
4年間の月日を費やした後、この作品を自分の元におきました。
この作品のモデルについては、懐妊した女性像、男性の肖像画であるとか、レオナルド自身を女性の姿で自画像を描いたなど、その顔立ちと笑顔はさまざまに解釈されました
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モナリザ(ルーブル美術館所蔵)

≪ミラノ第2期~ローマ滞在≫
♦ミラノ♦
1505年にレオナルドはミラノに戻り、今は高いビルや店が立ち並ぶサン・バビラ地区に住みました。
そして7年後、自身の「最後の晩餐」を観に行き、多くの若い画家たちがその絵に影響され模写していることに驚きました。
コモへの小旅行で、モンテ・ローザの麓、ヴァプリオ・ダッダも訪問しました。

♦ローマ♦
1513年にレオナルドは、ジュリアーノ・デ・メディチに招かれローマに赴き、ヴァティカンのベルヴェデーレの部屋に滞在。
現在のヴァティカン絵画館で、1480年頃に描かれた未完の作品「聖ヒエロニムス」を鑑賞することができます。

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ローマでレオナルドは力学、光学、幾何学の研究に専念する一方で、解剖学への熱意も持ち続け、遺体安置所での研究・調査を続けました。
しかしある匿名の手紙により、その魔術的行動が批判され、ジュリアーノ・デ・メディチが亡くなると、ローマを去ることを余儀なくされます。
サン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ聖堂の計測が、彼の永遠の都ローマでの最後の足跡です。

≪フランスへの移住≫
冒険に溢れた人生を送ったレオナルドも歳を重ね、安息を求め静かな場所を探していました。
そのためパリから225km離れたアンボワーズに住居(クロ・リュゼ小城)を提供した、フランス王フランソワ1世の招きを受け入れました。
これがレオナルド最後の旅となり、その後イタリアに戻ることはありませんでした。

≪貴重な作品を通して≫
♦トリノ王立図書館所蔵♦
イタリアの天才は65歳に。
トリノ王立図書館は、レオナルド60歳頃の自画像を所蔵しており、彼の姿を知ることが出来ます。
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同図書館にはレオナルドのデッサン13点と他にレオナルド派の6点も所蔵。(2019年特別公開)
素描を見る限り、レオナルドは細部にまで気を配っていました。
髪の毛やひげ1本1本まで精密に描かれていますが、顔の描写は未完成です。
しかし、額の上部と髭の一部が欠けているにも関わらず、まるであるかのような印象ではないでしょうか。
写真のようにもみえるこの自画像は、レオナルドが光を巧みに使った自らの顔への演出なのです。
レオナルドの芸術的作品数は多くはありませんが、手記や素描の数は膨大で、それこそがおそらく、彼が残した最も重要な遺産といえるでしょう。

♦ミラノ・アンブロシアーナ美術館所蔵♦
トリノの王立図書館が鳥の飛行の手稿を収蔵している一方で、ミラノのアンブロジアーナ美術館は「アトランティコ手稿」という大量の素描や手記コレクションを所蔵しています。
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アトランティコ手稿 f.26 (アンブロジアーナ美術館、ロンバルディア州ミラノ)
そのコレクションには、解剖学、天文学、化学、地理学、植物学、力学、飛行研究および建築プロジェクトまで、40年間にわたる彼の研究を網羅する1119枚が納められています。
アンブロジアーナ美術館はアトランティコ手稿に加え、「音楽士の肖像」というレオナルドの絵画を17世紀半ばからここに所蔵しています。
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楽士の肖像(アンブロジアーナ美術館、ロンバルディア州ミラノ)

ミラノにはまた「トリヴルツィオ手稿」もあり、 1478 年から 1493年にかけての51枚の手稿がスフォルツェスコ城トリヴルツィオ図書館に収蔵されています。
レオナルドは発作に襲われ右手が麻痺しても、手稿は増え続けました。
死の前年の手記に書かれた言葉、それは「私は描き続ける」。

1519年5月2日、67歳でレオナルドはこの世を去りました。
10年後、彼が埋葬されたアンボワーズのサン・フロランタン教会は荒らされ、彼の墓も破壊。
レオナルドのものとみられる骨が見つかったのは近年1984年であり、その後、アンボワーズのサン・テュベール礼拝堂に安置されたのです。

500年前に1人の人間としてのレオナルドの物語は終わりましたが、その時代をそして自身の命を精一杯生き抜いたレオナルド。
彼は今なお、世界の人を影響し続ける伝説でもあります。

≪次回シリーズ予告≫
レオナルドの命日5月2日までに以下のシリーズを予定。
♦レオナルド in ロンバルディア州
♦科学との出会い
♦レオナルド in トスカーナ州
♦レオナルド500 注目のイベント10
♦レオナルド芸術

ローマ本局サイト情報より

♦レオナルドの生涯シリーズ
若き日のレオナルドはここから
レオナルド、ミラノ編
膨らむ探求心

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